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典型とは?
[ 125] 典型(ミニ事典)
[引用サイト] http://wwwsoc.nii.ac.jp/gsle/70.kihonyogo/minijiten.tenkei.html
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○ 人間、吃らなくちゃ、だめだ――である。長谷川四郎ふうに言うと(…)、「言葉をさがしさがし、のろのろ書く」ことである。そうやって、のろのろ書く時に、「描かれるべきものが、別のことを命令している」ことに気づくのである。ということは、自分の内側に住みついていて、いつもでっかい顔をしてのさばり出すスラスラ、ベラベラ人種が引っ込んで、別の吃りの〈内なる鑑賞者〉がポツリポツリ「描かれるべきもの」について語りはじめるようになる、ということである。こうして、最初に「考えたのとは違った画面」が自己の実際の作品の「画面」になっていくのである。 典型(Vorbild)とそうわたしたちが呼んでいる、形象(Bild)にまで顕在化された現実のイメージは、まさにそのような〈内なる鑑賞者〉の掘り起こしによるところの、またそのような鑑賞者のリアリティーを踏まえた現実の実像としてのイメージのことにほかならないだろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.120-121〕 ○典型――それこそ、最も鮮明で具体的なイメージ、形象である。S.K.ランガーが“ダイナミック・イメージ”と呼んだもの(…)の実質的な内容も、ここに言うこの典型のことであろう。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.131-132〕 ○ 実践の対象としての事物の現在像が、ドン・キホーテの風車ではなく、現実的な意味を持った実像としてありうるためには、その現在像が未来像をまっとうに、ショッキングに反映していなければならない。 部分(個・特殊)を微視的に見つめることが、同時に巨視的に全体(普遍)をとらえる操作につながる、という、虚構による典型(典型像)造型の営みも、主体的な認識としてのそのような未来(未来像)のさき取りということを前提としている。あえて算数的次元での比喩を用いて説明すれば、地上にあっては視界にはいってこない同一平面上のさまざまな風景も、“未来”という名の高層ビルの屋上からは巨視的に視野の中に含まれると同時に、自分の立っている(立っていた)地点との関係も明らかになる、という関係とそれは似ている。もっとも、比喩のとりかたは別のほうがいいかもしれない。自分が立っていた地上のその地点の位置はかえずにヘリコプターで垂直に上昇して地上を見渡す、という風なことにしたほうがいいかもしれない。ともかく、典型が普遍に通じる個のイメージであるというのは、比喩的に言えばそういうことなのである。〔1973年、熊谷孝著『芸術の論理』p.139〕 ○ 文学、とりわけ小説は、単なる特殊に対象を見つけるのではなくて、実人生にかかわる、(…)普遍的な問題を対象化してとらえようとするのですね。言語形象による普遍的な問題のイメジャリな対象化・客観化だ、と言ったらいいでしょうか。 私、くどいくらいに言っておきたいと思うことは、小説>は、日常茶飯事のごくありふれたことに課題を見つけるんだ、ということですね。その、ありふれたことというのが普遍的なことなのですからね。「事実は小説より奇なり。」というバイロンの言葉は、あるいは旧い一時期のロマンについては当て嵌まるかもしれないけれど、、私たちが現在必要としているような小説は、決して奇 を追うものではないわけです。少しく図式的な言いかたをしますと、文学・小説は、最も普遍的な性質を具えた個を、その普遍の中に探り求めて、描写という表現手段によって形象的造型を行なおうとする営みだ、ということにもなりましょうか。 文学的発想 というのは、第一義的には、この最も普遍的な性質を具えた個が何でありどれなのかを、形象の眼で見きわめる、という発想のことです。こうした最も普遍的な性質を内包している個のことを典型 と、そう呼ぶわけなのですが、(…)井伏が見つけた典型はしぐれ谷の朽助であって、他のもろもろの“朽助”ではなかったわけです。 つまり、この 朽助や、朽助のいる谷間に……そういう場面と、そういう人間像に典型を見つけたという点に、井伏文学固有の発想があるわけなのです。〔1978年、熊谷孝著『井伏鱒二――〈講演と対談〉』 p.64-65〕 |
[ 126] 「2ちゃんねる」の社会とデマゴーグ〜インターネットは衆愚政治の典型か?
[引用サイト] http://www.watch.impress.co.jp/internet/www/article/2002/0617/special.htm
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(編集部から:最近、話題を振り撒いている巨大匿名掲示板「2ちゃんねる」。今回の特集では、本誌で「社会学の理論で斬る『ネットの不思議』」を連載していた鈴木"charlie"謙介が、「2ちゃんねる」的なものを組み込んだ上で社会モデルを構想しないといけないんじゃないか、と提言します) どちらも団塊ジュニア世代(1971〜1975年生まれ)を主要な受け手として抱え込みつつ、大きなムーブメントを形成している点。 とはいえ、私は別に大まじめに言っているのではない。この二者の受け手世代に共通点があるなどという統計データは存在しないし、どちらにも団塊ジュニア以外の世代が多く関わっている。団塊ジュニアといえばJリーグ発足を思春期に経験し、ミサンガ、フェイスペインティングといった従来は一般的でなかった応援手法を大々的に採用した世代であると同時に、2ちゃんねるにおいては「ガンダム」や「ゲームセンターあらし」などの'80年代のサブカルチャーを元ネタに多数採用している世代だが、それとてあくまで印象の世界の話だ。 それにもかかわらず、このような話をするのは、2ちゃんねる、ワールドカップにまつわる大きなムーブメントが、ある点で共通のモチーフを有しており、この点について考えることを抜きにしては、今後のインターネットの進むべき方向さえ見誤ると思っているからだ。 2ちゃんねるは、今年に入ってからもさまざまな話題をオンラインのみならずオフラインへも提供している。その多くは「祭り」と呼ばれる事態が2ちゃんねるの外へと波及することで起こったものだ。「祭り」とは2ちゃんねる特有の現象で「2典」によれば「現在進行形のイベント、事件などについて特定のスレ上でもりあがること」とある。そのイベントは2ちゃんねる以外でもニュースとして取り上げられるような「事件」の時もあるし、一部の「2ちゃんねらー」にしか関係しないローカルな出来事の時もある。 ただ共通するのは、その盛り上がりに合理的な理由や意味を見いだしにくいということだ。有り体に言ってしまえば、やっている本人達にも「なぜそんなことで盛り上がっていたのかわからない」のである。 もちろん、今の若者に共通の価値観−ひとまずは今が楽しければいいじゃないか−をもってして、無害である限り祭りでも何でもいいじゃないかということはできる。しかしそう簡単に言い切れたものか。 例えば、先日のTBC個人情報流出事件の場合。2ちゃんねるが発祥とされるこの事件は、TBCのWebサイトにおける個人情報ファイルの杜撰な管理が発覚し、2ちゃんねる内をその話が駆けめぐり、実際に個人情報ファイルがそこから流出する結果となった。だが、管理体制の不備を批判し「悪いのはサイト管理者」という2ちゃんねらー達の言い分に一切の非はないのだろうか。 確かにネット上、というかセキュリティに詳しい人間ならば、このような場合は2ちゃんねるにその事実を晒すのではなく、管理者にこっそりとそのことを伝えるのが一般的な作法だろう。しかしそれは情報が漏れた後ではさして意味のないことなのだから、祭りで盛り上がった2ちゃんねらー達にその責はあるまい(サイト管理者に最初に通報したのも2ちゃんねらーだった)。 むしろ私が危惧するのは、これが何らかの自作自演であった場合だ。仮定の話になるが、実はTBCのサイトのセキュリティホールを以前からよく知っており、個人情報ファイルを欲しがった何者かがファイルを名簿業者に転売することを考えたとしよう。名簿業者にファイルを転売するのと相前後して2ちゃんねるでサイト上のセキュリティ問題を発表する。すると「祭り」が起きて、ファイルを転売した輩が、2ちゃんねるからの大量のアクセスログの森の中に埋もれてしまう。名簿の価値は結局流出までのタイムラグの問題だから、このような2ちゃんねるを用いたやり方で一儲けを考えることも十分にあり得るだろう。つまりこの場合、2ちゃんねらー達は楽しく踊っていたつもりが、見事に「踊らされた」ことになるのだ。 ただ「踊らされる」というのは言い過ぎかもしれない。絶対王制下における権力者が民衆をコントロールするような場合と違って、祭りを「仕掛けた」人間の意図が必ずしも貫徹されるとは限らないからだ。それでも私がこの点を問題だと考えるのは、これが社会学の歴史の中で半世紀以上も前から問題にされていた事態と同じモチーフを有しているからだ。 「祭り」のような、人々が訳もわからずある出来事に方向付けられて熱狂するような状態のことを社会学では「集合行動」と呼ぶ。集合行動とは、(1)比較的組織されていない集団による、(2)集団全体として捉えるしかない創発的な傾向を有する、(3)ある時間的な広がりを持った過程のことである。例えば、「火星人襲来」のラジオ放送によって引き起こされたパニック(1938)や、ロサンゼルスの黒人暴動(1991)、そして豊川信用金庫の取り付け騒ぎ(1973)などの事例があげられる。もう少し詳しく集合行動について説明しよう。 (1)集合行動は、あらかじめメンバーが定められた組織によって起こるのではなく、たまたまそこにいた人のようなゆるやかなつながりを持つ集団によって引き起こされることが多い。火星人が地球に攻めてきたというラジオ放送を真に受けて家から飛び出した人々の間には別に組織的なつながりがあったわけではなく、同じような人々がたまたま集まってパニックが広がっていったのだ。 (2)また集合行動は、集団全体の傾向とそこに参加する人々の個別の心理状態とが必ずしも順接的に結びつかないという創発性を有している。アメリカの実証研究の例では、暴動の際に「無抵抗の」黒人に対して暴行を加えた白人警官が、通常ではむしろきまじめすぎるくらいに規範的だったということがある。 (3)そして集合行動は、ある瞬間に起きてすぐに消えてなくなるということは少なく、時間がたつにつれて徐々に規模が大きくなるという特徴を持っている。1973年に愛知県で起きた豊川信用金庫の取り付け騒ぎは、「豊川信用金庫が危ないらしい」という電車の中での女子高生の他愛ない冗談が、数日間をかけて大きな噂となり、実際に信用金庫に人々が詰めかけるという事態に発展した。 先に挙げた「祭り」の事例はまさにこの集合行動の特徴を体現していると言えるだろう。2ちゃんねらーは別にメンバーの固定された組織ではないし、祭りに参加する人々が個別に考えていることがそのまま祭りの内容に反映されるわけではない。さらに大規模な祭りになると、2ちゃんねる全体に広まっていく間にその規模も拡大することになる。 それがオフラインで起こった場合には、2ちゃんねらー以外を巻き込んでいくことも考えられるだろう。今年の二月に発生した2ちゃんねるの「吉野家祭り」では、吉野家新宿靖国通り店に2ちゃんねらーが大挙して押し掛け、その騒ぎを傍観していた2ちゃんねらーではない通行人の間にまで靖国通り店に芸能人が来ているという「うわさ」が広まっていくことになった。その噂がさらに人を呼び‥‥というこの事件は、誰かの意図ではコントロール不能な集合行動の特性をよく表現している。 集合行動はなぜ問題になるのか。もちろん個別の噂が引き起こすパニックや暴動はそれ自体として問題だろう。しかしながらさらに問題なのは、それがいつ、どこで、どのように起きるのかということが予測もコントロールもいちじるしく困難であるという点だ。 例えば戦時下では往々にして、人々は自分や自国が置かれている状況について冷静な判断を下すことが難しくなる。特に近代戦争は国家をその主体としているため、戦争に参加する人々はなかんずく「国家のために」という意識で戦争に参加することになり、そこでさまざまなファンタジーが呼び出されることになる。実際、第二次世界大戦では日本もドイツも、そして米国や英国でさえも戦時総動員態勢を引き、人々は自ら進んでその熱狂に参加したのである。戦後になって特にドイツの事例を中心に「なぜ人々は進んで戦争に荷担したのか」についての研究が盛んになり、それは私たちが生きる近代社会の一つのあるべき姿を構想するに至ることになる。 それは例えば「大衆社会」という問題だ。20世紀初頭のドイツでは西ヨーロッパに遅れてスタートした産業化がようやく花開き、人々は農村の因習から解き放たれた「近代的な大衆」として生活することができるようになった。しかしそれは同時に、それまでの生きるよすが(縁)であった共同体を失い、常に失業の不安におびえながら生きなければならないということであった。近代的な会社組織の中で働くということは、常に自分が他の誰かと交換可能な存在として生きる不安と背中合わせである。 この不安や無力感から逃れるために人々は、当時目新しいメディアとして登場したラジオなどの享楽的な文化に酔いしれ、政治的無関心の中で個人の殻に閉じこもっていくことになる。政治は不安を解消するための一つのイベントになり、大衆はメッセージの内容よりもスキャンダラスで刺激的な話題により反応するようになっていった。このような状況下でナチスは台頭してきたのである(ご承知の通りナチスはワイマール憲法という「民主的な」体制の下で合法的な選挙によって選出されたのだった)。 一部の権力者の暴走ではなく、大衆全体の暴走によって民主制などの政治や国家体制の基礎が脅かされる。このような事態は衆愚政治とも言えるだろうが、それに対する処方箋は大まかにいって二つの方向に分かれる。一つには、「大衆は愚かなので優秀なエリートが社会を先導すべきだ」とするもの。官僚の堕落を嘆き、エリート意識を持った官僚を待望する近年の官僚批判は多くこの立場である。もう一つは、「大衆が愚かであったとしても、二度と同じ過ちを繰り返さないように『自立した市民』として一人一人が立ち上がるべきだ」とするものだ。「市民社会論」とも呼ばれるこの立場は具体的にはNGO、NPOなどの市民運動、行政に対する市民オンブズマンなどの活動のもっとも根底に流れる考えだ。 この二つは第二次世界大戦後の先進国でそれぞれに独自の発展を遂げ、時流に応じてそれぞれが勢力を強めたり弱めたりしているが、なぜこのような話をするかというと、これがまさに現在のインターネットが直面している大きな問題の一つであるからだ。 すなわち、インターネットというメディアを通じても集合行動は実際に起きることが証明されており、それがひいては衆愚政治につながる可能性を否定できない以上、大衆社会について考察されたのと同じように、インターネットについても「エリートか、市民か」という対立の中で処方箋が提出されてこざるを得ない。 Peace Campaign」のように2001年の米国同時多発テロ事件以降顕著になった、一般の人たちで作る平和運動のサイトはその典型だろう。もちろん問題点がないわけではない。インターネットは情報それ自体としては規模の大小を問えないため、どのようなサイト、どのような運動であってもそれはそれで一つの運動として他のものと同列にカウントされてしまう。検索エンジンを活用したとしても、どの運動が一人一人にとってふさわしい、望ましいものであるかを判断するためには、個人の側の見識が十分に育っている必要がある。 ではエリートによる先導はどうか。インターネットは草の根のメディアだから、官僚主導でのシステムはなじまないと考える人も多いだろうが、必ずしもそうとは言えない。というのもまだインターネットというメディアの普及それ自体にムラがあるからだ。たとえばある自治体では地域の各公共施設に光ファイバーによるインターネット接続環境を提供する代わりに、そこで利用できるインターネットのコンテンツについて、特に「有害情報」を規制するという政策を採っている。つまり、インフラとバーターに自治体の決定する「望ましい」コンテンツが市民の側に提供されるわけだ。何が望ましいコンテンツであるか、そもそも規制することは是か非かといった問題についての民主的な決定プロセスが欠けているとはいえ、エリート主導によるインターネットの方向付けは不可能ではないという一つの証左になるだろう。 結局のところ、これらの動きの前提になっているのは、ここまで述べてきたような、集合行動−なぜだかわからない熱狂−という私たちの社会に特有の現象を、いかにして衆愚政治に陥れないかということだ。このような立場に立てば市民主体であろうとエリート主導であろうと、2ちゃんねるの「祭り」のような「望ましくないコミュニケーション」は眉をひそめるべきものだと捉えられるだろう。 しかしながら、再びサッカーの例について考えれば、フーリガンならずとも私たちはこの一ヶ月「ニッポン!ニッポン!」の熱狂−その熱狂はいったいなぜわき起こるのかは誰にもわからない−のただ中にいる。ナショナルな語りが嫌いな人間にしてみれば、誰もが熱狂の中で日の丸を振る姿は奇妙極まりない光景に見えるかもしれない。だが私たちは、私たちがそのような社会に生きていることを否定できるだろうか。 2ちゃんねるの「祭り」は愚かな集合行動かもしれない。エリートとして彼らを正しい方向に導くべきだと考えようと、2ちゃんねらーにもっと賢慮なインターネット市民たるべく成熟してもらいたいと考えようとかまわないが、集合行動がいつもコントロール不能な状態で盛り上がっていくことを考えると、その考えは常に、単なる「祈り」に終わる可能性を排除できない。あるいは、祭りやフーリガンになって盛り上がってしまう人たちは、教育や啓蒙の足りない、ココロに問題を抱えた人たちだと考えるか?社会学の立場からすれば、そのような個別の人の状況に社会問題を還元させることは、単なる誤りであるだけでなく、再びそのような「わけのわからない熱狂」に皆が巻き込まれてしまう可能性を排除できない点で有害ですらある。サッカーでも2ちゃんねるでも、あるいは他のなにものでも、なぜだかわからない熱狂の渦に巻き込まれつつ、それでも衆愚政治に陥らないという「第三の道」が成立するかどうかが、インターネットと共に生きていく私たちのこれからの社会の中で検証されることになるだろうし、そうならなければならない。 |
[ 127] ウノウラボ Unoh Labs: 海外経験のない典型的理系人間が日常会話レベルの英語を話せるようになるまでの道のり
[引用サイト] http://labs.unoh.net/2006/09/post_44.html
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海外経験のない典型的理系人間が日常会話レベルの英語を話せるようになるまでの道のり 最近僕のアメリカ人の友達がオフィスに来たときに英語で会話をしてたのですが、ようやく僕が本当に英語が話せることが証明できて存在価値を認めてもらえるようになりました。 昔は理科数学しかできない典型的な理系人間で、高専に進学したため受験戦争の荒波から逃れ、英語レベルは中学生止まり。海外に一度も行ったことがない(パスポート持ってない)状態で外国人と普通に会話ができるまでに成長することができました。 英語は読めるんだけど喋るのは苦手という方は多いと思います。なので、僕がどうやって英会話力を見につけたかを紹介したいと思います。 これが一番大事です。英和辞典は捨ててもいいぐらいです。日本人は日本語を勉強するときには日本語を使います。英語を勉強するときには英語を使えばいいのです。そもそも言語っていうのは一対一で対応するものではないので、外国語を使うことに無理があります。英語を日本語で勉強してしまうと、いつまでたっても My hobby is golf. みたいなコテコテな日本語英語から抜けられません。 単語の意味を調べたいときには英和辞書は使わずに英英辞書を使います。ネイティブの人が使う英英辞書は説明が難しいので、世の中には英語学習者向けの辞書があります。本屋に行って Learner's dictionary を探せば必ずありますし、最近の電子辞書には初学者向けの英英辞書がついてる機種があります。 僕が簡単な英語の本を読んでると、よく「そんな簡単な英語を読んでも勉強にならない」という人がいますが、これは間違ってます。本当に勉強にならない人は同レベルの英語の話をネイティブレベルで書ける人です。日本語でも英語でもそうですが、普段の会話で使われる単語は基本的な単語の組み合わせがほとんどです。重要なのはどういうシチュエーションでどういう単語の組み合わせを使うのかを習得することです。 多読法で重要なのは意味が分からない単語が出てきても調べないことです。いちいち調べてたらすぐ飽きてしまいますし、意味の分からない単語がある状態で内容を汲み取る技術は実際の会話でも生かされます。頻出頻度の多い単語は前後の文脈から少しずつ意味が分かってきます。頻出頻度の少ない単語の意味を丸覚えしても、どうせ使わないのだから意味がありません。ボキャブラリーは少しずつ増やしていけばいいのです。自分達もそうやって(無意識に)日本語を学習してきたはずです。 僕がお勧めするのは Penguin Readers です。英語初学者向けに書かれた本でレベル分けがされてるので、少しずつステップアップするのに最適です。僕はこのシリーズは50冊ぐらい読みました。今は児童文学の方にスイッチしてて、最近だと「ピノキオ」とか「ガリバー旅行記」を読んでます。 上記で英語を読む力はついてくるのですが、実際に英語を聞かないと聞く力がつきません。僕のお勧めはVOA News Special English です。アメリカのような移民の国では英語がネイティブでない人が多いので、平易な英語でゆっくりと喋ってくれます。オンラインで聞けますし、トランススクリプトもついてるので何を話しているか文字で確認することもできます。 映画を見るのもいいでしょう。ラブコメディなんかがいいと思います。日常的な言い回しが多いし、何よりみていて楽しい。映画のトランススクリプトは本屋でも売ってるし、オンラインでも見つかります。 シャドーウィングというのは英語を聞いて、それと同じことを自分で声に出すことです。かなり効果があります。日常会話で話す言い回しなんてのは大体決まっていて、何回も口に出して慣れてくると自然に口から出てくるようになります。 シャドーウィング用の教材は少ないですが、探せばあります。CDとトランススクリプトがついてるやつです。できるだけ日本語訳がないものを選びましょう。 以前 youtube で映画を見ながらコテコテのカタカナ英語で話している人の動画がありましたが、あれってすごくいいです。ひたすら練習することが大事です。 ここまで下準備をしたら実践あるのみです。といっても日本に住んでて外国人と会話する機会なんてそうそうありません。 僕の場合は Nova に通いました。Nova には VOICE ルームという制度があって、ここではレベル関係なしにただ英語会話をするというシステムです。1回2000円ぐらいで何時間でもいれるので、通常のレッスンよりかなりコストパフォーマンスが高いです。 英会話喫茶というのもあります。都内だと恵比寿とか高田馬場にあります。僕はあまり行ったことはありません。 Nova は先生の質が良くないからダメだという話がよくありますが、それは間違ってると思います。僕の持論では Good English is Bad English. で、日本人にとって分かり易い英語が必ずしも通じるとは限らないからです。現地の人は英語の先生ではないのですから、むしろ英語の教え方を知らない人と普通に話ができるようになるほうが大事だと思います。 上記の方法で、早い人で半年ぐらいで話せるようになると思います。僕は大体1年ぐらいかかりましたが。日本語を話す能力がある人は誰でも英語を話す能力を持っていると思います。大事なのは「継続は力なり」ではないでしょうか。 偶然見つけたブログで、凄い情報を見つけた。 英語の本を、それもあえてレベルの低い本を読みまくって英語を学習する多読法というのを初めて知った。「多読法で重要... [詳しくはこちら] さて、せっかくなので私の場合についても説明しておきましょう。参考になるかどうかよく分かりませんが、カタコトくらいになる効果はあると思います。ちなみに、私の... [詳しくはこちら] 先日の日記で「海外経験のない典型的理系人間が日常会話レベルの英語を話せるようになるまでの道のり」-ウノウラボに絡んだところ、ありがたくも本人からコメント... [詳しくはこちら] ウノウラボで、ウノウラボ Unoh Labs: 海外経験のない典型的理系人間が日常会話レベルの英語を話せるようになるまでの道のりというエントリが紹介され... [詳しくはこちら] 映画作品の情報に関して驚くほど充実している IMDb という英語のサイトがあり、アメリカにいるころから利用していたのですが、映画のスクリプト(脚本のこと... [詳しくはこちら] 自分たちが日本語ネイティブと話すときに相手に合わせるのと同じように、向こうもこちらに合わせて話してくれるので大きな問題にはならないですよ。 私の勤め先の先輩は、「エロ本を読め。」と言っていました。数人の人が「それは確かに勉強になった」と頷いていました。 特に日本人が苦手なリスニング、スピーキングの対策としては、シャドウイングを始める前に私は自分の発音の矯正から始めました。大阪にある日米英語学院の高木という方の発音の授業は役に立ちましたよ。発音をしっかり身につけると、聞ける、話せる、そしてその先のステップであるネイティブ英語を身につける、がスムーズに行くような気がしてます。そしてわたしは今、アメリカで生活してます。 僕は全部買いました。近くに仲間がいたら共同で購入して回し読みするといいと思います。 「海外経験のない典型的理系人間」と言う言葉に違和感を感じたのは私だけでしょうか.理系の人間の方が英語を使う機会は多いと思うのですが.大学の研究室でも英語の論文を読むことはザラですし,留学生も居ます.就活の時も英語は出来て当たり前みたいな空気を面接官が出していました. 英語の論文読むのと多読は全然違います。論文読んで "I'm with you" は学べないでしょう。英語の論文読んで、話せない人は何百人と見てきましたが、英語の論文読んだだけで英語を話せるようになった人は一人も見たことがないです。 留学生って日本語普通に話せませんか?僕の知ってる留学生は全員流暢に日本語話せてました。留学生がいっぱいいる大学ならともかく、普通は留学生と英語で会話しないでしょう。そもそも英語話せない留学生もいますし。 よっぽど競争倍率の高い企業に応募したんでしょうね。もし全ての企業で英語が話せることが前提条件なら9割方の人が就職浪人でしょう。 私はとにかくリスニングのみを徹底して行っていたのですが、いくら聞く量を増やしても消化不良気味でした。テキストの方もがんばってみます。 就職の為には英語は必須のだと思います。どこの企業でもよければ必要ないかもしれませんが、俗に一流と呼ばれる企業に就職する為には必要で、留学経験なども重要みたいです。当然駅前留学じゃ駄目ですかね・・・(^^; ウノウラボはウノウ株式会社のエンジニア/デザイナーによる大小のアウトプットを行っていく場です。現在ウノウは絶賛人材募集中です。詳細は求人ページへ。 他にも多くのエントリーがあります。メインページやアーカイブページも見てください。 |
[ 128] Works 非典型雇用労働者調査 2001 リクルート ワークス研究所 Works Institute
[引用サイト] http://www.works-i.com/flow/survey/htk.html
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雇用形態の多様化に伴って、パート・アルバイト、派遣社員など正社員以外の雇用形態で働く人々は、今後さらに増加すると思われます。 ワークス研究所では、2000年8月に、「働く個人の就業に関する実態と意識」を多面的・包括的に把握すべく「ワーキングパーソン調査」を実施いたしました。本調査は、その補完調査として、対象を正社員以外の就業形態で働く人々(非典型雇用労働)のみに絞り、その就業実態や意識を詳しく聴取するため実施致しました。 同じ「パート・アルバイト」という就業形態でも、主婦パート層とフリーター層における現状の評価に大きな違いがあることがわかる。 「家庭」という大きな制約条件を抱える主婦にとって、現在の自分の生活ペースを大事にしつつ働くことができるという環境(現職場、現就業形態)に対する満足度は非常に高い。しかしながら、何に満足しているのかを探っていけば、「そもそもあまり多くを望んでいないが故」の高い満足である様子もうかがうことができる。 現在の社会環境下では、仕事内容そのもののおもしろさややりがい、また自分自身のキャリアアップなど、多くの主婦がはじめから求めていない(あきらめている)のではないだろうか。ただ、さらに高学歴化が進む中、結婚・出産で一旦正社員というポジションを退いた主婦層が、職場復帰を考える際の意識・志向は今後変化していく可能性が大きいと思われる。 一方、現状への不満感が強いのはフリーターである。主婦パート層のような制約条件があるわけではないが、「経済的余裕がない」「求人がない」「採用されなかった」などの理由で、正社員を希望していたにもかかわらず不本意ながら現在の職に従事している傾向が強い。職場や就業形態についての満足度の低さからも、このことは明らかである。 「自分のやりたいことを実現するため」に、積極的に"フリーター"という形態を選択していた時代とは異なり、「やむをえずフリーター」という割合の急激な増加がうかがえる結果となった。 また派遣層や契約・嘱託層でも、今後正社員を希望する割合は少なくなく、その希望理由としては「雇用の安定」が群を抜いて高いが、一方で現在の就業形態を希望する者が同程度いる点は、フリーターと異なるところである。 現在の就業形態が「アルバイト・パート」と回答した者のうち、18〜34 歳の未婚男女(配偶者のいない者)をフリーターとした(学生を除く)。 注)厚生労働省によるフリーターの定義は、「18〜34 歳のパート・アルバイトで働く者/ただし男性は勤続 5 年未満/女性は配偶者のいない者」である。 非典型雇用労働者の 7 割強が現在の就業形態に満足。但し強い満足感を持つ者は2割程度 ●フリーターでは「接客・給仕」「商品販売」「レジ」の上位 3 職種で約半数を占め、就業職種がかなり限定しているが、主婦パートでは上位のサービス関連職種以外に「一般事務」「製造・生産工程作業」等への広がりがみられる。 また、派遣は「一般事務」「OA機器オペレター」などの事務系職種に集中。契約・嘱託は、他就業形態に比べ「ドライバー」の割合が高い点が特徴。 各形態別の年収平均は以下の通り。主婦パート:89.5万円、フリーター:140.4万円、派遣:192万円、契約・嘱託:268.2万円。 ●勤務年数は就業形態によって大きく異なり、フリーター:1.5年、派遣:2.1 年であるの対し、主婦パート:4.5年、契約・嘱託:4.9年と、比較的長期間同じ職場に勤務している。 ●「文書を受け取った」割合が最も高いのは派遣であるが、それでも5割程度にとどまる。 ●初職の正社員経験率が最も高いのは主婦パート。86.0%が初職で「正社員・正職員」を経験。 一方、フリーターでは初職の正社員経験率は27.0%と究めて低く、初職が「パート・アルバイト」の者が 7 割を超える。またフリーターでは、過去の「正社員・正職員」経験率が32.3%と、他の修業形態に比べ極端に低い。 希望した就業形態のトップは「パート・アルバイト」(67.1%)、ついで「正社員・正職員」(21.4%) ●主婦パートでは、9 割近くが「パート・アルバイト」希望であったが、フリーターや契約・嘱託では4割以上が「正社員・正職員」を最も希望しており、やむをえず現形態に就いた者が少なくない様子がうかがえる。 ●制約があったとする割合が、最も高いのは主婦パート(57.9%)で、その内容は「育児」「家事」「配偶者控除内に抑える」など、家庭の事情が就業形態選択時の大きな制約となっている。 一方、フリーター、派遣、契約・嘱託では、「経済的余裕がなく早く仕事につきたかった」ことが制約条件のトップ。 「正社員」や「世間相場」と比べた場合、"安い"と感じる割合は 2 割〜 3 割程度であるのに対し、「仕事内容」と比べた場合には"安い"と感じる者が4割を超える また、「通勤時間」「勤務日」「仕事と生活の両立」などへの満足度は高いが、「給与」「能力評価」へは総じて満足度は低い ●現在の就業形態同様、勤務先について最も満足度が高いのは主婦パート(78.8%)、最も低いのはフリーター(75.2%)。 ●フリーター以外の就業形態では、継続勤務意向者が5〜6割、「早く辞めたい」者は1割前後であるが、フリーターの継続勤務意向は12%、「早く辞めたい」割合は2割を超える。希望年数をみてもフリーターは3.1年と、他就業形態に比べ短い。 ただし、継続就労意向をもつフリーターの希望年数は17.2年と、他の就業形態と比べ最も長くなっている。 今後就労意向をもつ非典型雇用労働者が最も希望する就業形態は、「パート・アルバイト」(52.8%)、ついで「正社員・正職員」(28.0%) ●「パート・アルバイト」希望率が最も高いのは、主婦パートのみ。フリーター、契約・嘱託では、「正社員・正職員」希望者が最も多い。特にフリーターでは、半数以上が「正社員・正職員」を希望している。 【調査目的】 首都圏で正社員以外の多様な就業形態で働く人々(非典型雇用労働者)の、就業実態と意識を明らかにする。 【調査対象母集団】 首都圏 50km 圏内(東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県・茨城県)で契約社員・嘱託、派遣、パート・アルバイトとして就業している 18〜64 歳の男女(学生は除く)。 主婦パート:現就業形態が「パート・アルバイト」と回答し、性別=女性 かつ配偶者ありの者 フリーター:現就業形態が「パート・アルバイト」と回答した18〜34歳以下の未婚男女 【備考】「全体 就業形態別編」以外に、「主婦パート編」「フリーター編」「派遣編」があります。 ※調査票の設計にあたって、東京大学社会科学研究所 佐藤博樹教授にご協力をいただきました。 |